昭和五十一年十二月十三日 朝のご理解
                               松永享四郎

ご理解第五十三節
「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」


 目に見えぬおかげが多い、知ったおかげより、知らぬおかげの方が多い、私どもが未だ知らぬ世界、所謂、未知の世界、ここに神様の大きな働きが起こっておる、その大きな働きが起こっておる事を、私どもが判らせて貰う、そこに信心がかけられても良いと云う位です、そこに、信心の進めて行く焦点を置いて良いくらいです。
 ご理解頂いとりましても、言葉以外の言葉、所謂、言外の言とこう云われます、に深さ広さを感じ取らせて頂く様なおかげ、そこにあれもおかげであった、これもおかげであったと、段々判る様になる、所謂、段々本当の信者にお取立て頂く事が出来るのです。
 今日、ご神前で、口を書いて下に光と云う字を頂いた、こんな字はありませんよね、この頃から書きます様に、日の光と書いて晃(あきら)と読む、所謂、日と光の音律、輝き光る事、と云う意味だそうです、天地の親神様と、私どもが持っておる光と、天地の光とが一つになる、そこに一つのリズムの様なものが生まれて来る、そう云うリズムに乗った云わば生き方。
 昨日、西岡先生が、美登里会の研修会の時でしたが、話しておられましたが、おかげの泉を毎日遠方に送っとります、その中に、宮崎の高野さんのところに送ったのが、住所が違っておらんのに、送り返して来ておる、どうした事じゃろうかと思うて、自分の部屋に持って帰っておったら、昨日の朝のご祈念に出ちゃるから、昨日の晩ですね、夫婦で此処へ遅く見えて泊まっておられて、そして、先生の部屋に見えた。
 まあ本当に丁度云うなら「ふ」が良かったと、私どんが頂いて帰れる訳なんです、とてもふが良かったてんなんてん、合楽ではず-っとこう云う調子の中に、日々おかげを頂いてますよと、云うて話したと云うたそうです、所謂、ふが良かったと云うのは、そういつまでも続くもんじゃありません、けど、そのふが良かったと云う事がず-っと続いておると云うのです。
 それは、良しにつけ悪しきにつけなんですけどね、ですから、過ぎっている時には控えじゃならん、調子の出とる時には、その調子に乗ってやらせて頂くと云う、何とも云えん信心生活、神様のおかげ、神様のお働きに間違いないなあと思いながら、暮らして行ける生活。
 私は、合楽の方達の場合なんか、本当に神様の働きの間違いないなあと云う体験の中に生活が出来る事が、日々おかげなんか頂いて行かねばならんと、大体、合楽理念をいろいろな角度から頂いて、徹底的に出来ると云う事ではないけれども、実意丁寧神信心させて頂いて、それが間違いないと云う事が、それが判らない人が「ふ」が良かったなあと云う訳です。
 昨日、特別研修会の時に話したのですけど、今度、ご本部からの帰りに、私ども福山から帰りました、汽車に乗らせて頂きました、それで、金光から福山まで、豊美達が、夫婦で送って呉れましたが、丁度、途中で火事があっとりましてね、それが今消えたと云う訳で沢山の自動車が、道で放水の水で、だぶだぶ流れているところでした、そしたら、豊美が、ああまあちっと早う来りゃ良かった(笑い声)火事が見たかった訳ですよね、そしたら、娘婿が云いよりました、お前が野次馬根性が深かけんで、そげな事を云う。
 繁雄さんが本当に神様の働きちゃ間違いないなあと云われるのです、神様の働きの間違いないと云う事が判るのは繁雄さんです、威智雄さんは、もしお前が云う様に火事の最中にども来て見れ、全部車両が交通止めになって、汽車に乗り遅れにゃならんぞ、お前が野次馬根性ばかり強うてと云う野次馬、その一つの事だけでも、それだけ考えが違う。
 一人は、ああ火事を見たかったと思いよる、一人はもしその時間に行きよって、火事にども会うと交通止めだから行かれない、そすと汽車に乗り遅れなきゃならん、そこんところを考えとる、後ろに乗っておられる、繁雄さんは、それを聞いていながら、神様の働きは間違いないあとこう云う訳なんですよ。
 だから、合楽の場合はね、この間違いないなあと云う事が、判るまでが、今日のご理解で云うと、合楽で云う一人じゃないかと云う事、此処では、あれもおかげであった、これもおかげであった、判る様になると、真実の信者じゃと、だから、本当の信者じゃと云う事には、ここの判る様になったと云う、私が云ういろんな働きの、間違いないなと云う事が判るところから、もう一つ進まなきゃいかん。
 私は、もうそれこそ、この寒空に焼け出されている人達の事をですね、一生懸命、途端に祈りよったのです、だから、四人四様、あれが違うですね、只、間違いないなあ、間違いないなでおかげ頂いとったっちゃでけん、その間違いないおかげを頂いて、それが、合楽の世界、云うならば、神様も喜んで下さる世界に、自分の心が飛躍して行く様なおかげを頂かねば、ひらめきです。
 その時その時の野次馬根性じゃ、いよいよいかん、その次には自分を中心にした考え方、その次ではね、これは恐らく合楽を知って信心の稽古をしておらなければ、神様の働きの間違いないなとすぐピンと来ないと思うとです。
 ですから、合楽で、私はおかげを頂いておる人達が、合楽の信心で一人前と云うならば、今、本当に神様の働きちゃ間違いないなとすぐ実感出来る様な信心を、だから、何とはなしに有り難い、こう云う間違いのない働きのなかに、おかげを頂いとると云う事になるのです。
 だから、それだけではいけんのです、そう云う間違いのない働きにおる自分が有り難いなら、その有難いと云うものもまた、自分の周辺にも拡げて行こう、神様の喜びにも、伝わる様な思い方の出来れる信心にならせて頂こう、そこに、私は、あれもおかげであった、これもおかげであったと、判る様になって来ると、その有難いと云うものが、心に頂けるのではないかと思うですね。
 丁度、昨日、研修の始まったばっかりの時に、豊後森のお医者さんの、武田先生がお参りになった、丁度その時に東京から、文香さん達夫婦が帰って来てお礼に出て来とるところであった、それで、武田先生が、いつも自分の自動車で見えるんですけども、もう道が凍ってしまってから危ない、それで、昨日は汽車で来たと云いよんなさいましたが、そんなら、丁度、この人達が田主丸まで帰りますから、便乗させて貰いなさい。
 そしたら、僕達は一寸若先生のところに用事があります、それなら、なお幸いたい、只今研修があるから、しばらく頂いて行きなさい、ならそうして下さいと云うて、お話を頂いておられた、それが、お話の一番よかとこで迎えに来たんだそうですけども、もうその時には立ち上がろうごとない、だから、私は、ここからバスで行きますから、もうよございますと云うてから、断わんなさったそうです。 そして、次の汽車で行くからと云うので、次の汽車の時間まで、間に合う様に、ここでお話を頂いとられました、そしたら、汽車の次の時間が参りますからと云うて、立ち上がろうとされるところに、福岡から、松永さん達夫婦が参って参りました、滅多に参って来る方達じゃないけれども、なら、僕が、田主丸まで、送って差し上げようと云うて、送ってあげたと云うその事がです。
 もう本当に、どれも、これもが、一つの音符を押さえながら、ならオルガンならオルガンを弾いとる様に素晴らしい音律が、そこに出来とるでしょうが、そう云う事を日の光、その日と光とが一つにならなければ、本当の信心の喜びとか、有り難いものとかになって来ない、もう本当に光り輝かんばかりのおかげの世界と云うものが、ほんとにそこにある。
 それが、日々善しにつけ、悪しきにつけ、そうした素晴らしいタイミングのなかに、所謂、西岡先生じゃないけれども、これが、あんた毎日ズ-っとですよと、云う様なおかげを合楽では頂いておるのですよと、だから皆さんの家庭でも、やはり、神様の一分一厘間違いない事よと。
 日の内に何回も感じられる様な場合があるなら、やや、合楽では一人前、合楽では、今の合楽の信心を本当に皆さんが身につけて行っておんなさる人達だと云う風に、私は思います、ね、本当の信者を目指す前に、まず一分一厘間違いのない働きのなかにある実感をです、私共が頂かして貰わなければなりません。
 今日、私がご神前で頂いた、それが口を書いて光と書く、そんな字はありませんよね、これに口にもういっちょ中に入れると、日の光と云う事になる訳ですけど、口に光と、こう云う訳です、信心が愈々成長して行く、愈々豊かになって行く、大きくなって行く、大きくなって行く為には、神様が大きくなる働きを必ず示して下さる。 今、私に心の中に、一寸、私の心の中では、憚らない様な問題を持っとります、だからもう、自分の心にやるせがない、自分の心に憚らないからと云うて、誰れ彼れに話したらもうおしまいです、そう云う自分の胸に憚らん様な問題を、自分の胸にじっと、その問題の本質を見つめながら、そして、神様に心を向けながら、そして、自分の心を見つめて行くと云う、行き方をして行く内に、ああ、これがおかげであると云う事が判るのです。
 神様がこの様にして、憚らん様なものを、心の中に感じさせてそして、これが憚る様な事は、心が大きくなる事の為に神様が、お働きと判る時に、お礼が云えれるのです、実を云うたらすぐは、お礼は云われぬ不思議なもんです、判っとっても云えぬ、だから、それこそ口だけでも良いから、有り難い有り難い、本当に神様がこの様にして、鍛えて下さる、この様にして、大きくして下さる、鍛えられる時は中々に有難いと云うものは、実感として、生まれて来ませんです。
 けれども、神様の一分一厘間違いのない働きが判って来るからね、これもおかげではあると頭では判る、又、これが心に憚らない様な事をです、神様だけにしか申し上げられない、どうしたなら、こんな切ない思いをせんならんだろうかと、と云うて、神様がどうしたならではなくて、神様がこうして、私の心をもっと大きくして下さる神様の働きだと判る時に、本当に神様に泣き泣きでも有り難うございますと云わねばおられん心。
 大きなおかげを頂きたい、心はいつもこまい、チョイとした事があると、もう顔に表れる、もう人にそれを口でがちゃがちゃ云う、そしたら、信心の稽古も何もありません、そこんところをじっと自分の心の中に、心が豊かになって行く事の、それを云わず根肥やしとさせて頂いて、段々日にちが経って行くうちにです、その口にもう一本筋が入る様になって、愈々、日の光の音律と云われる、そのリズムが出来る様になると、もうそれこそ、鼻歌が出る様な心の状態になって来るのです、心が有り難くなって来るのです。
 皆さん本当に大きなおかげを頂きたいならね、いつも神様はそう云う働きを示して下さるんですよ、大きな受け物を作らせて下さろうとする働きなんです、そこに、至った時に初めてです、あれもおかげであった、これもおかげであったと、あとで、凡夫の事でそれこそ判りません、本当にはがゆい事であった、腹の立つ事であった、と思いましたけれども、その事が実はおかげであったと、あれもおかげであったと判る。
 なら、現在ふんまえておるところの胸に憚らない様な事もあるけれども、それも実はおかげなんだけれども、自分の心の狭さ、心の小ささが、それを受けきらんでおる事だけだ、そこで、神様は大きうなれ大きうなれと、云うて、心を大きくならして下さる働きが始まっておるんだと思うから、人に云う段じゃない、それを、じっと自分の心の中に頂き納めて有り難うございますと、口だけでも良いから、有り難うございますと云うている内に、一つこの棒が加わって、日と光の、所謂、交響楽と云う者が、すばらしい音律と云うか、一つの形をなした、おかげの世界に入って行く事が出来るのです。
 はがゆい思いをしたり、腹が立ったりする、もうこればっかりは、自分の胸に納められないと云う時には、愈々、神様が 大きいおかげを下さろうとする、もう前提だと思はねばいけません、それを、こなして行くところの信心、そして、愈々豊かな心、愈々大きな信心が出来て行くのです。
 皆さんの日々の生活の中に、これは、善しにつけ、悪しきにつけですよ、例えば、かちっと叩かれる痛い思いをする時でもです、何と神様の働きの間違いない事、又、本当にそれを感じなければ、あ痛いよと云いよる事では、おかげにならんです、殴られたり、叩かれたりと云う事がありますけど、その中に神様の働きの間違いのない事を、自分で感得して行くと云う事。
 先ずは、それこそ、繁雄さんの信心ですね、所謂、本当神様の働きちゃ間違いないなとこう云われる、その間違いないなと云う一つ
おかげの世界に、先ずは住まわせて頂かねばならない、そこからもう一つ向こうにあるところの、神様が喜んで頂くと云う信心。
 ほんに、神様に喜んで頂くちゃ、昨日、大隈と云う方達夫婦が時々参って来るんです、それが、所謂お願いだけ参って来るんですけど、これは、ようおかげ頂くんです、それが、昨日、16日の報徳祭の事の案内が来たかと云えば、来とらんと云うから、これを上げた、ええ、その日はお参り出来るじゃろうかと云うて、神様に祈りよったら、親先生の喜びと頂いたです、私は初めてあのご大祭と云うものが、あの親先生の喜びと云う事にならなければいけないと云う事です。
 ええですか、もう日々がこうやって皆さんが、お願い参り、いや、又、信心の稽古に通うて来ると云う訳です、それから、月に4回の月次祭は、もう家族を挙げて、月次祭から月次祭まで頂いたお礼を、心行くばかりにお礼を申さして頂こうと云うのが、月次祭です。
 まあこれも繁雄さんの例えですけれども、月次祭に今日はもう福岡からも参って来とりました、親子連れで、北野からも親子連れで参って来ておりました、家からも、皆家族中で参って来とりますと云う、もう孫子、いつも15人、20人の久富家が参って来る訳です、月次祭たんびに、それを、私に云われる時に、本当に、私、嬉しいです、子供、所謂、その娘やら、息子やら、家族が挙げて参って来る訳です、所謂、本当に日頃お前達は信心が出来んから、せめて月次祭くらいには、お礼のお参りして来にゃ出来んぞと、云うてあるとを、娘やら、息子達が聞いとる訳です、と云う様にです、お月次祭はそして、お礼参拝ね。
 ご大祭と云えば、ある意味で親先生の信心のバロメ-タ-の様なものです、だから、云うなら、自分の信心と云うものを、大祭にかけてあるです、教会長と云う者は、ですから、そのご大祭にです、それこそ、あちらにもお導きしよう、あちらも誘って行こう、もし自分の自動車に乗って来よるならば、私が、何時から、この車に乗って頂いて良いけんと云うて、普通はお参りのない人達を連れてお参りをして、今日は10人お参りが出来ました、今日は15人お参りが出来ましたと云う、親先生が喜ばない筈がないでしょうがね。
 ご大祭と云うのはね、親先生のお喜び頂ける為のご大祭と思うてよい、その親先生のお喜びが、神様へ向けられない筈がないから、おかげを頂くんです。
 私は、昨日、そしたら、その大隈さんが、ほんとにいつもお願いする事ばっかりお願いしてから、親先生に喜んで頂く事はいっちょん出来んな、こんどは、どうでんこうでん、皆でお参りせにゃんぞ、15日は、お晩餐で、忙しかばってんが、ちょっとあれば、かんぐって、いっちょお参りしようと云うて、大隈さん達二人で云うているのです、こんど、初お晩餐ですね、仏教で云うと、それで、後片付けやらで、翌る日忙しかと云う訳です、けども、前の日に片付けてから、ならお参りせんにゃいかん、ほんに、お話し頂かにゃわからん、お願いすることばっかりで、親先生に喜んで頂く事は何いっちょでん出来ん。
 その大祭に皆でお参りする事が、親先生のお喜びなら、その親先生のお喜びのご大祭に、皆で連れのうて、お参りしようと云うのであります、そう云う信心を内容としてです、一分一厘間違いのない働きの中にある私共でです、日々実感が出来るところまで、私は、信心が出来た時に親先生の喜びをどうかして、喜んで貰いたいと云う心と、一分一厘間違いのない働きの中にある、これで、私は合楽の信心の一人前と云う事になるのじゃないでしょうかね。
 ここに、今日申しました、あれもおかげであった、これもおかげであると判る様になると、真実の信者じゃと、真実と書いてあるね、その真実の信者を目指さなければ、その前提として、先ず、合楽では一人前と云われる位な、信心を先ずは身につけたいですね。
     どうぞ。